2019年4月15日月曜日

善光寺ラウンドトレイル2019 参戦!

「善光寺ラウンドトレイル」(ロング18km)に出場した。


今年最初のトレランレースである。
気温はスタート時が10度くらい、途中で17、8度くらいと快適。
桜はまだ満開ちょっと手前の段階だったのが残念...

距離は短いけれども累積標高が約1,100mあって、山を5〜6つほど登り降りするコース。


走れるところは気持ちよく走れたけれど、急坂の登り(歩き)がしんどい。8kmから10km過ぎあたりでは、一体どこまで登るんだろうと絶望的になりつつ、太腿を手でサポートしながら、ゼイゼイ息を切らして登る。

走ってる時の方が呼吸が楽なのはなぜだろう?

数日前に関東地方でも雪が降るような気温だったため、コース脇のところどころに雪の名残があり、ぬかるんで走りにくい箇所もいくつかあった。崖っぷちみたいな狭い道もあるので油断すると危険である。

葛山の山頂
登りで疲れ果ててたどりついた↑ここの私設エイドで出された芋井地区のりんごジュースとリンゴがめちゃくちゃ甘くて美味しかった。「芋井に住めば毎日食べれるよー」とスタッフのおじいちゃん達が連呼していて心がちょっと揺らいだ(笑)。


今回履いたシューズはHOKA ONE ONEのチャレンジャー ATR5。
(去年の2回のレースではColumbiaのモントレイル)
先月の豊橋ハーフに引き続いてHOKA ONE ONEを採用。残り5kmあたりから運営スタッフが言うところの「えげつない下り」になり、石の多い道になるのだが、厚底のおかげで足への衝撃も少なく、飛ばすことができた。

長野市内を見下ろす。山並みがキレイである。
時間がなくて善光寺観光はできなかったけれど、会場から見えた長野市の町並みと遠くの山並みがキレイだった。


2019年3月26日火曜日

穂の国豊橋ハーフとHOKA ONE ONE

昨年に引き続き、穂の国豊橋ハーフマラソンに出場。

去年は暖かくて桜も満開に近い感じだったけれど、
今年は風が強くて体感気温が低く(スタート時10度)、スタートを待つ間は半袖ウェアにしたことをずっと後悔していたほど。
走り出したら寒さはまったく感じなくなった。

15km過ぎから川沿いの土手を走るのだが、ゼッケンが千切れそうなくらい横風が強く、片手でゼッケンを抑えながら走っていた。

それでも、練習の成果が出たのか(週に2度くらいしか走ってないが)ハーフの公認レース自己ベストを1分以上も更新。去年のタイムを6分も上回ることができた。

考えられる要因はいくつかあるのだが
シューズをHOKA ONE ONE(ホカオネオネ)のCLIFTON 5に変えたことが大きいかも知れない。ハワイのパンケーキ店みたいな名前だが、フランスのメーカーである。

これまではアディダスやアシックスなどのシューズをいろいろと試してきたけれど、たまたま昨年秋にトレランシューズを探していた時に出会ったのがHOKA ONE ONE。

土踏まず部分のソールが分厚いのが特徴。
かなり個性的だけれど、履き心地はソフトで快適。「マシュマロのよう」と評されているらしい。
なるほどという感じ。

ナイキの厚底がブームになっているけれど、ホカオネを履いているランナーはまだ多くないし、カラーリングも個性的なので気に入っている。

やや高価なのだけれど、たまたま入ったスポーツショップでWideタイプだけ30%オフになっていたので(写真はWideタイプのものではない)レース1ヶ月前に購入したのだが、デザインにも個性があるし、足が疲れないので本番でも履いてみたのだった。

地面をしっかり蹴っている感触があり、つまり反発力があり、それでいて厚いソールのおかげで足に伝わるショックが少ない。いつもなら後半で足の指や爪先が痛くなったりするのだが、今回はそれがなかった。

自己ベストはこのシューズのおかげかも知れない。
今年のトレランもHOKAで走る予定。


帰りに豊橋駅前のアーケイド街で見かけて立ち寄った久遠のチョコが美味しかった。
自分でチョコをコーティングできるアイスバーも美味。
店の雰囲気もおしゃれ。
帰ってから調べたら、障害者を積極的に雇用している素晴らしい企業だと判明。

ヤマサのちくわも美味しかったし、豊橋の名物はカレーうどんだけではない!

2019年3月25日月曜日

人工知能(AI)の現在地

学生の中には、なかば本気で「AIで私たちの就職先(仕事)がなくなる?」と心配している者がいる。ネットニュースの煽情的な見出ししか見ていないと当然の反応かも知れない。

2018年に出版された『AI vs. 教科書が読めない子どもたち』(新井紀子)や『誤解だらけの人工知能 ─ ディープラーニングの限界と可能性』(田中潤・松本健太郎)を読めば、2018年時点で人工知能がどのレベルに達しているのかがよくわかる。

人工知能の現時点での能力としてわかりやすいのは画像検索能力である。
Googleが開発している人工知能は、3日間で1000万枚の猫の画像をデータとしてインプットされた結果、写真に写った猫を認識できるようになった。

ただし、猫が生き物であるとか、愛らしいとか、そうした属性はまったく認識していないので、たまたま猫の顔のように見える木目とか壁のシミとか生物ではないものまでも「猫」と認識することがある。そこが人間との決定的な違いである。

人工知能は人間によって適切に加工されたデータを与えられなければ何もできないので、膨大な加工済みデータを準備することが重要な作業になる。したがってGoogleやAmazon、Facebookなどビッグデータを持っている企業に強みがあり、どの企業もデータ収集にやっきになっている。

普及し始めているスマートスピーカーは家庭の音声データの収集のために使われるらしいので要注意。

人工知能にできること・できないこと、向いていること・向いていないことははっきりしている。
大量のデータを瞬時に分析するのは人間よりも得意である。
将棋ソフトのように、過去の膨大な対局データを与えられて、ある局面の限られた選択肢(指し手)の中から勝利につながる手を選び出すような作業には向いている。

人工知能は「意味」を理解できない。
例えばある人物が黒い衣服を来ていた場合に、「黒い服」を認識できても「喪に服しているのかも知れない」「だから暗い顔をしているのかも知れない」などとまでは考えない。
空気を読まないので、敬意とか配慮とか忖度とかそういう気配りが必要とされる接客サービスには向いていない。

「あなたなんて、大嫌い」という女性の言葉と涙の真意も理解できない。
世の中の多くの男性が理解できないので問題はないかも知れないが(笑)


少なくとも現時点で、そしてこれから2、30年は、機械的な単純作業や限定的で専門的な作業を除けば人間の仕事が人工知能(AI)に奪われるということはなさそうである。AIについて知れば知るほど、逆に人間のもつ能力の高さが見えてくるのが興味深い。

 

なお、現時点で「AI搭載」などと宣伝しているサービスの大半が、ディープラーニングに基づいた人工知能を使っているわけではないので、惑わされてはいけないらしい。

2013年10月11日金曜日

大学広報においては学生が最良のメディアである

ここ3年ほど、所属学科の入試担当として
学科広報と学生募集活動に関わってきた。

ウェブ(公式サイト、ブログ、Twitter、Facebook、YouTube)、
印刷媒体(大学案内、ポスター、チラシ、車内広告)、
高校訪問、大学展、オープンキャンパス、などなど、
さまざまなメディアやイベントを活用してきた中で
わかったことが一つある。

大学広報においては学生が最良のメディアである、と。


学科の入学者数が過去最低に落ち込んだ年に入試担当となり、
まず最初に取り組んだことは
オープンキャンパス改革であった。

幸いなことに、所属学科には明るく活発な学生が多い。
授業以外の場でさまざまなことにチャレンジし
その経験とコミュニケーション力を活かして優良企業に就職している。

オープンキャンパスは、そんな生き生きした在学生たちを
「見せるための場」として活用することにしたのである。
5〜6人の高校生に対して1人の割合で学生スタッフを配置し
模擬授業にも同じテーブルに座って参加させた。
そして学科紹介や入試制度の説明に時間を割くよりも
高校生と在学生が対話できる時間を増やしたのである。

学生スタッフを選ぶ際は、
成績優秀で模範的な学生というよりは、
コミュニケーション能力の高さを最優先し
身近で多様なタイプの学生たちを選んだ。

その結果、
「先輩たちの様子を見て、楽しそうな学生生活が送れそうだと感じた」
「この学科に入学すれば自分を変えられると思った」
などの感想が増えて、学科志望者が急増した。


どの大学の公式サイトも大学案内パンフレットも美辞麗句で飾られ
そこで他大学との差別化を図ることは難しい。
また、そこには理想的で模範的な学生(モデル)ばかりが登場し、
多くの受験生にとっては「遠い世界の人」にしか映らない。
消費者がテレビCMにだまされなくなったように、
受験生も広告物だけでは志望校を選ばなくなっている。

SNSや友人・知人の「クチコミ」の影響力も大きいが
人から聞いた話だけではなく、
自ら実際にキャンパスに足を運んで雰囲気を体感し、
在学生たちの生き生きとした表情や姿を見て、
そこに自分の将来像をリアルに重ねることができるかどうか、
それがオープンキャンパスの価値であると言える。

そして学生は、受験生にとって最も信頼できるメディアとなっているのである。


こうした広報がどの大学でもできるわけではないが
「ウチにはいい学生がいるんだけど、受験生が集まらなくて...」
と嘆いている、地方の小規模大学などの場合には有効な方法ではないだろうか。

2013年9月21日土曜日

ガラケー時代の終わり

この2年ほどのあいだ、
携帯電話(ガラケー)とiPhoneの2台持ちを続けてきた。

ガラケーは主にメールと通話、
iPhoneはSNSや検索などのウェブ
というように使い分けていたのだけれど
今回、iPhoneに一本化することにした。

LINEを使うようになってからは
学生たちとの連絡も、家族との通話も
すべてLINEだけで済むようになり
この数ヶ月間は、ほとんどガラケーを使わなくなっていたからだ。

仕事での連絡は別として
コミュニケーション・ツールとしてのメールは
もうその役割を終えようとしている。

そして、電話も。

メディアの歴史において、携帯電話という
一つの時代が終わったのは間違いない。

スマートフォンは、Web2.0のように、私たちのライフスタイルを大きく変えた。
「Web2.0」みたいに、この現象に何か名前を付ける必要があるのではないだろうか?

2013年1月23日水曜日

Web1.0懐古

この2年ほどはすっかりFacebookの方に入り浸り
mixiで書き込みをすることはほとんどなくなっていたのだが、
mixiが「足あと」(正確には「訪問者」)を試験的に復活させたようなので
久々にアクセスしてみた。

タイムラインには、マイミク64人のうち特定の3〜4人の書き込みしかない。
しかも、そのうち2人はTwitterのツイートを表示させているだけである。

ほとんどmixiを利用していなかったわりに
マイミクの数が減っていなかったのはやや意外だったが、
どうやら、そのマイミクたちも私と同様に
最近はmixiから足が遠ざかっているために
マイミクの解除すらしていないだけのことのようだ。

建物は立っているものの人影のないゴーストタウンに
迷い込んでしまったような感覚に襲われる。


このままmixiにサヨナラを告げてもよいのだけれど
唯一の心残りは、Web1.0的なつながりで
交流していた少数のマイミクさんの存在である。

マイミクのマイミク、という関係だったり
たまたま投稿した画像を見つけてコメントをくれたり
などというきっかけでマイミクになったその人たちとは
本名はもちろん、住む地域も、年齢も、性別すらも知らないまま
何度かメッセージをやりとりしたり、
互いの投稿にコメントしたりという形で
細々とつながりを保ってきた。

相手の正体を知らないままの関係の方が
余計な気を使わないし、
ある意味では素顔でコミュニケーションをとることもできた。
2000年前後のいわゆる「ホームページ」の時代にも
全国の見ず知らずの人たちとつながりができて
それはとても「インターネット的」なことで
新鮮で、魅力的な感覚だった。

そうしたマイミクさんと、実名制のFacebookでつながりたいとは思わない。
本名や、各種プロフィールや、顔写真などを知ってしまうことで
何か大切なものが失われてしまうのはまちがいない。

Facebookは、それはそれで楽しいし魅力的なサービスだけれど
Web1.0の時代の、匿名のコミュニケーションの良さを楽しむことはできない。
匿名アカウントのTwitterならまだ可能かも知れないけれど。

あの頃は楽しかった、などというと年寄りみたいで嫌なのだけれど
ソーシャルメディア全盛の時代にあって
かつての「インターネット的」な楽しさが失わてしまうのが
残念だという気持ちを否定することもできないのである。

2012年10月24日水曜日

アラブの春

『「アラブの春」の正体 − 欧米とメディアに踊らされた民主化革命』重信メイ 著
を読んだ。

中東については、マスメディアのごく限られた、
そしておそらくかなり偏った情報しか得られないし、
観光旅行などで訪れるような場所も少ないので
文化・宗教的にもあまり馴染みがなく
はっきり言って、よくわからない世界である。

20年くらい前に、エジプトを2週間ほど旅行した時に
けっこう地元のエジプト人何人かと話をしたり
一緒に旅をしたりしたので
その時に歴史や宗教観を話し合ったくらいの知識しかない。

いわゆる「アラブの春」については、授業の中で
「ソーシャルメディアによる革命」
「ウェブの力がアラブの民衆を解放した」
みたいな一言でまとめてしまっていた。

当然といえば当然だが、
現実はそんな単純でもハッピーなものではなかった、
ということがこの本を読んで分かった。

20年前にエジプトで出会った知識層の若者たちが
自分たちの境遇に対して怒っていた理由も
ようやく今になって理解できた気がする。

ソーシャルメディアが必ずしも人々を幸せにするものではないことも。